In Memoriam

Kimmo & Ritva Juutilainen

ドンマでの申し込み

1965年の11月、キンモは初めてリトバをカイサニエミ公園に夜の散歩に誘い、その後リトバの住む学生寮に送りました。驚くことに、キンモはドンマの学生寮の廊下でリトバにプロポーズをしました。リトバは初めて共に時間を過ごしたばかりの相手からの申し込みに躊躇し、この申し出を断りました。キンモはこのことを快く受け入れられず、踵を返して「もう自分からは連絡はしない、でも、選択肢は君の側にあるからね。」と言い残しました。RUKの打ち上げパーティーや初めての夜の散歩はうまくいかなかったものの、リトバへの思いは残りました。でも、まだ時が満ちていなかったのです。

1965

1964

宣教の火種

教会が運営する学生伝道会(現在のOPKO)が1964年に設立され、それはキンモとリトバの将来に大きく影響を及ぼしました。キンモは大学の勉強をしつつ、学校を対象とした学生伝道会の秘書としてフィンランド国内の伝道活動に回り、リトバは学生伝道会の秘書として奉仕を始めました。ラハティのヨウティヤルビ教会で行われた大学生と学生達の集会では、数百人の若者達が集まり、神様からの宣教召命に応答するという革命的な出来事がおきました。キンモとリトバはこの集会に参加している事をお互いに知りませんでしたが、二人は、他の沢山の学生同様、神の招きに応答しました。宣教への火種が誕生した時でした。

ハミナでの家庭集会

1960年、リトバは高校最後の年をコトカで過ごし、彼女の叔父が開いている家庭集会に集うために定期的にハミナを訪れていました。同じ年の春にキンモはハミナでRUK102(陸軍予備将校学校)のトレーニングがスタートしました。キンモはすぐに家庭集会の場所を見つけ、リトバに初めて出会いました。キンモは、2か月後に開かれるRUKの打ち上げパーティーの同伴をリトバに申し込みましたが、リトバは同日に兄の結婚式が重なったため申し出を受けることができず、この話は先には進みませんでした。彼らもそう思っていましたが、秋には彼らはヘルシンキ大学の神学部に進むことになり、そこでクラスメートとして再会しました。

1960

1966

夜の気付き

1966年2月、リトバは友人の家で夜を過ごしました。夜が更けて、友人との会話はこれまでほとんど考えてこなかった異性に関してのことでした。突然、リトバはキンモがその男性であることに気付きました。やはり!キンモへの思いは少しづつ熟し、重要な出来事がイースターに起こりました。キンモはヤムサで行われる学生伝道会のイースター集会をリードするためにヘルシンキへ出発予定でした。リトバは沸き起こってきた思いを手紙につづり、キンモが急いで電車に乗り込む前に、キンモの手に手紙を押し込みました。キンモはこの旅の間に返事を書き、2人のロマンスがスタートしました。夏至祭がやってき、キンモとリトバはサボリンナのポウックサルミで時間を過ごし、夏至祭の焚火の側で彼らは婚約をしました。

分娩室を新居として

1967年がやって来、クラスメートでもある婚約カップルは神学の修士号を取り終えました。一つのゴールが終了し、1967年10月22日にリトバの地元であるエリマキの教会にて結婚式を挙げました。キンモとリトバの新居はヤムサにある、古い、以前は出産のための病院だった学生伝道会のトレーニングセンターでした。そこは一時的には彼らの家にはなりましたが、それも長くはありませんでした。キンモは秋にスコットランドに語学研修に出発し、12月にヒッチハイクでリトバのもとに戻り、再びイギリスへと出かけていきました。彼らには宣教への思いが募っていきました。

1967

1968

宣教の召し

春には渡り鳥がやってきて、キンモはイギリスからフィンランドへ戻ってきました。次はリトバが、春が終わるまでの期間、ロンドンへ語学研修に出掛けていきました。その年、彼らは宣教に出ることを待ち望んでいました。宣教地として二人が祈っていたのは、最初はイスラエルでした。この道は閉ざされ、エチオピアが示されましたが、その道も閉ざされました。そして、最終的に示されたのがさらに遠い地である日本でした。秋には、その後所属することになるオスロのノルウェー・ルーテル宣教団を訪れ、仕事の学び、宣教仲間との交わり、ノルウェー語を学びました。1968年12月21日に彼らはヘルシンキ駅からシベリア鉄道で日本へ出発し、クリスマスの夜、キンモとリトバは新しく住む場所となる神戸に到着しました。この時、彼らはまだその先ほぼ40年を日本で過ごすことになるとは想像していなかったでしょう。

キンモとリトバの

物語